インディーバンド × ライブハウス互助会

はじめに

先日、海保けんたろー氏のブログ記事が大変に反響を呼んでいるという話を聞いた(今日の時点でレビュー数は10万カウントを突破)。

私が海保氏に初めて会ったのは2011年、今から6年前になる。その当時、既に彼は当該記事に書いてあるようなことを主張していた。つまり本人にしてみれば「大事なことに気づいたから、今から皆に教えるね」という感じで書いたものではなく、以前から思っていたことをわかりやすくまとめてみたというところだろう。

私がこの記事を読んだ印象では、6年前から海保氏の主張に大きく変わったところはなかったので、特に目新しい話題でもないなと思っていた。だから賛同にしろ反対にしろ、こんなに拡がるほどのものかと少し驚いている。逆に言えば、この業界は6年前から特に変わっていないし、関心も高まっていないとも取れるのだが。

ライブハウスのチケットノルマ問題

ライブハウス関係者やインディーミュージシャンのSNSなどを追っていると、定期的に「ライブハウスのチケットノルマ問題」に関する話題が持ち上がる。

チケットノルマとは何か簡潔に説明すると、会場であるライブハウス側が出演者にチケットの最低売り上げをノルマとして課し、それをクリアできなかったら出演者が不足分を現金で補填しなくてはならないというもの。

そして、この話になると必ず、

ライブハウスは自分で集客しない
   ↓↓↓
代わりに出演者から金を搾り取っている
   ↓↓↓
結果、企業努力をしない店がいつまでも延命できてしまう
   ↓↓↓
つまりライブハウスは悪である(一部の良心的店舗を除く)

という論調になる。

海保氏の主張で他と少し違う部分があるとすれば、「その悪党どもにエサを振り撒いて、結果的にいつまでものさばらせてしまうアマチュア・インディーバンドが学習しないのが悪いのだ」というものの見方をしている点だろうか。ライブハウスを諸悪の根源とする理論より一歩踏み込んだ考え方に思える。ブラック企業に対してはギャーギャー騒ぐよりも、黙って不買運動をするのが効果的だという主張に似ているかもしれない。

ただ誰が「悪」なのかという視点で語られているという点では、両者とも一緒という風にも受け取れる。恐らく反対意見を寄せた方の多くはその点に違和感を感じたのだろう。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONのGotch氏までこの話題に言及したブログ記事を書いていた。

読み比べればわかるが、両者の視点はそもそも出発点が違う。ライブハウスのノルマ問題に関する賛成反対理論の多くも同じだ。自由主義経済の正義に立ってみれば、多くのライブハウスがやっていることは、健全な競争に歯止めをかけ、何の発展もないまま人的資源を消費する悪いモデルケースに映ることだろう。一方でGotch氏は、自分が売れていなかった頃の話に始まり、「失敗できる場所」の大切さを語っている。

このすれ違いは、今後も起こりうるライブハウスノルマ問題論争でも無くなることはないだろう。そもそもライブハウスはそういう場所だからだ。

少しこの世界を覗いたことがある人ならわかると思うが、この界隈には「こいつら音楽は凄いけど絶対売れないだろうな」というタイプのミュージシャンが少なからず存在する。ライブハウスがそういう人たちの受け皿になっている部分は否定できず、自由主義経済からの観点だけでは語れない側面が存在するのだ。

「互いに助け合う」関係

だからここらでいいかげん、ライブハウスとか音楽業界とかじゃなくて、もう少し引いた所からの視点が欲しくなってくる。もういっそ「日本人とはどんな民族か?」とか「人間とは?」みたいなところから話をしてもいいんじゃないだろうか。

この記事のタイトルの「インディーバンド×ライブハウス互助会」とは、相撲業界の裏話にちなんで付けた。ガチな好角家には公然の秘密だが、大相撲の世界には長らく八百長が存在している。相撲界における八百長は、第三者が利益を享受する為のものではなく、純粋に力士同士の助け合いの為に存在しているのだ。ある相撲ファンが「八百長のネットワークというのは不正の温床というより互助会という風に捉えるべきである」と語っていたのを聞いて成程と思った。

これは少しライブハウスとインディーバンドの関係性に近いんじゃないだろうか。
相撲の八百長においては、「貸し」は星もしくは金で精算する。例えば、実力も実績もないバンドが、プロ仕様の機材を使用してプロ(?)の照明を浴びて観客の前でライブをする代わりに、金銭面での保証を請け負うというのは、ギブ&テイクの関係性として成り立つはずだ。
(実力と実績がある程度付いてきたバンドに対し、自分で呼んでおいてノルマを課す行為に疑義を唱えているのが一連の問題ではあるのだが)

そしてライブハウスの側も、時として馴染みのバンドの集客が奮わなかった時におまけをしてあげたり、店側との帳尻を合わせる為にブッカー個人が損失を補填するといったことをする(こういう話はライブハウス=悪論ではまず語られることはないけど)。第三者である観客は、ここに一切関与することはない。

生き残りの芽

また、先日話を聞いたある歴史研究家は「日本は談合の国である」と言っていた。
談合というと先ずはゼネコンと公共事業入札を思い浮かべるが、要は、本来競争によって白黒をつけるべきところを、話し合いによって力のない者にも生き残りの芽を残しておくことだろう。
談合が常態化した世界ではある種の腐敗が蔓延するのは避けられないが、それは談合が本来強者も弱者も平等に分配に与る為のシステムであり、それが自由主義経済の理論と反発するからだ(勿論現実には強者だけが得をするように談合を利用する例もあるだろう)。

より良いサービスやコンテンツを提供する努力をする企業が生き残り、それができない企業が淘汰されていくというのは一見正しい理屈である。ただそれは競争を原理とした理屈だ。

急に話を大きくするが、例えばTPPに参加することによって、日本の産業が危機に陥ると危惧する声がある。それに対して、国際競争力を身に付けた企業が生き残ることになるから、結果的に国民が受けるサービスは向上するという声もある。

初めから競争原理の中で生きている企業ならば、TPPの荒波に揉まれて勝つも負けるもいいだろう。ただ、金儲けなんて考えず素朴で身の丈に合った生き方をしたいと思っているだけの人たちが、望まない競争に巻き込まれて仕事を失っていくのは忍びないと思う。

ライブハウスは、基本的には街の喫茶店のような存在だと思う。髭をたくわえた渋いマスターが常連客にこだわりのコーヒーを飲ませる、そんな場所に近い。近頃は喫茶店もすっかりチェーン店が幅を利かせるようになってしまったが、綺麗で立地が良くて値段が安い店よりも、馴染みのマスターがいる狭い喫茶店でコーヒーを飲みたいという人は必ずいるはずだ。

競争が全てではなく

いつだったか、Yahoo!知恵袋に投稿された「この世は弱肉強食が摂理ではないのか?」という質問に「弱肉強食ではなく適者生存の世界である」ということをわかりやすく説明した解答がネットで話題になったことがあった。

ライブハウスのノルマ問題の話では、「ライブハウスという強者がバンドマンという弱者を食い物にしている」という論調が目立つけれども、実際には弱い者同士が助け合う為に生まれた不完全なシステムではないのだろうか?

まぁ東京にライブハウスが多すぎるのは間違いのない事実で、少し数を減らした方がいいという海保氏の意見には基本的には賛成。じゃあどこを潰すべき?ってなったら決めるのは難しいが。
だが商売としてやってはいても、競争原理とは違った理念で動いている世界があるのは事実で、そこに別の世界の正義を持ち込んでも納得できない部分が出てくるのは仕方がない。

これを書いていて、ふと子供の頃に読んだ石ノ森章太郎の「マンガ日本経済入門」の一コマを思い出した。外国から日本の商社に出向してきた超エリートキャリアウーマンが、日本の農家を見学している時に「100万円かけて100万円のモノを作るなんてまったくのムダじゃない」みたいなことを言うのだが、それに対して同行していた同じ商社の日本人が「いや、農家の人っていうのは土に対する愛着とか色々あって、なかなかね…」とフォローを入れる。

理屈に合わないことを認めない社会は窮屈だ。ノルマ問題には間違いなく歪みがあるし、それが当たり前になってしまって歪みに気付かないライブハウスの従業員もいるだろう。ただ、誰が悪なのかを定義してそれを除くことに腐心するよりも、棲み分けてしまった方がいいと個人的には思う。なにしろ「ライブハウス=悪」論を振りかざす人だって、必ず例外は存在すると言うのだから。